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サイドストーリー

青島今昔 〜その3〜

宮崎の観光事業を牽引してきたのは、岩切章太郎が初代社長を努めた宮崎交通株式会社。岩切氏は「宮崎観光の父」として、宮崎県下の採用試験で問われるほどの有名な人物。

開業当初は市民の足として定期バスを運行していましたが、その後、観光客向けのバス、タクシーを中心に事業展開をしていきます。

昭和初期のタクシーと青島
今は見ることができない松と、木造の弥生橋が見えます。

こちらは、タクシーの運転手。当時の運転手、車掌の制服は詰襟の学ラン。
現在の学ランに通じる学生服の起源は東京帝国大学が1886年に定めたもの、黒の詰襟に、金ボタンで、陸軍下士官をモデルに作られました。エリート意識を持たせる狙いがあったそうです。

こちらは整備士

宮崎交通は、バス事業だけではなく、1939年には宮崎鉄道と共同出資で青島に「こどもの国」を開園し、観光事業を拡大していきます。戦時下にもかかわらず、宮崎交通が観光事業を展開できたのは宮崎が「皇祖発祥の地」と称して「聖地巡拝」という名目で観光客を集めることができたからだそうです。
観光バスと観光客、昭和24年ごろ

戦後は、戦前戦中の皇国色を払拭しようと、レジャー中心の観光開発、南国の演出を進めました。南国を演出するため、青島のビロウ樹だけではなく、フェニックスを植栽し宮崎の代表的な木にしなければならないと岩切氏は考えました。このようにして日南海岸、堀切峠にフェニックスを植え始めたのです。

画像は宮崎交通株式会社・資料編纂室よりお借りしています。